「浜仏壇」から曳山への展開

「長浜曳山まつり」の曳山造営には多くの職人たちが関与する。その木部を担当する大工や、塗師、錺師、指物師、蒔絵師、箔押師などの技術は、江戸中期には確立されたが、それらは当地で製造された「浜仏壇」を制作する技術と同じであった。「浜仏壇」は内部に曳山の屋根そのものと言える「八ツ棟」の千鳥破風が付いた屋根が、本尊上部だけでなく両脇にもつき、掲げられた彫刻は欅もしくは桧の一刀彫りで、漆塗りの柱には飾り金具が輝き、高欄を回す豪華な造りである。
江北の地は15世紀、本願寺8世の蓮如上人が熱心に布教活動をした場所柄であり、浄土真宗の勢力が非常に強かった。その信仰心を基盤として、江戸時代に「浜仏壇」が発展、時代を経るにしたがい、大型で豪華な仏壇を求めるようになる。民衆の間では、仏壇の大きさや装飾の豪華さを競う風潮もあり、滋賀県の北部一円では各家庭に立派な「浜仏壇」を持つようになる。その仏壇制作の中心だったのは、簡素な「和泉壇」から豪華な「浜仏壇」へと、仏壇技術を昇華させた大工・藤岡和泉であった。和泉は、当時日本各地で流行していた山車を、仏壇風に立てる独自な発想を行なった。現存する曳山が巨大な仏壇の形状をしているのは、そのためである。